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七夕の食べ物
ほしの宴の様子
「ほしの宴」
〜七夕の節供〜
迢迢たり 牽牛星
皎皎たり 河漢の女
纎纎として素手を擢げ
札札として機杼を弄ぶ
終日章を成さず
泣涕の零つること雨の如し
河漢は清く且つ浅し
相去ること復た幾許ぞ
盈盈として一水の
脉脉として語ることを得ず
漢代の古詩「文選」所収
牽牛星ははるかかなたにあり
こちらには織女星がきらめいている
織女はきゃしゃな白い手をあらわにして
さっさと音を立てながら機のひを動かしている
だが一日中織り続けても牽牛のことばかり
思って織りあがらず
涙が雨のように落ちる。
天の川は澄んでいてそのうえ浅く
また互いの距離はどれほどでもない。
しかし、一筋の川が水をたたえて隔てており
互いに見交わすだけで語りあうこともできない。

記述:佐藤紀子
荊楚(けいそ)歳時記>
 七月七日、牽牛・織女(しょくじょ)、聚会の夜と為す。
是の夕、人家の婦女、綵縷を結び、七孔の針を穿ち、或るいは金・銀・鍮石を以て針を為り、几筵・酒脯・瓜果を庭中に陳ね、以て功を乞う。喜子(くも)、瓜上に網することあらば、則ち以て符応ずと為す
 七月七日は、牽牛・織女が会う夜である。
この日夜になると、家々の女性たちは綵縷(さいる)(いろ糸)を結んで、七本の針にそれを通す。その針を金や銀や真鍮で作る者もいる。庭の真ん中に几(つくえ)と筵(ござ)とを置き、その上に酒と肴と瓜などの果物を並べて「巧」を授かるようにと祈る。もし喜子(くも)がその瓜の上に網をかければ、その望みがかなう兆(しるし)だとされている。
〇 七夕の節供
 七夕とは、陰暦7月7日の称。七夕祭、星祭ともいう。
七夕の行事にはいくつかの流れがあり、それらが複合して七夕の習慣ができあがったと考えられる。牽牛星と織女星の星祭の伝説と乞巧奠(きつこうでん)の行事は、中国から伝わったもの。星祭とは二星を祭る行事。天の川の両岸にいる牽牛星(鷲座の彦星)と織女星(琴座の織姫)とが、白鳥座の近くにいる鵲(かささぎ)の媒介で年に一度出会うという伝説に由来する。乞巧奠の風習は、女子が手芸に巧みになることを祈る中国古来のもので、7月7日の夜に供え物をして、裁縫・機織り・手芸などの上達を願う行事である。
 中国伝来の星祭伝説と、これから発展した乞巧奠の行事は、わが国古来からの「棚機(だなばた)つ女(め)」の習俗と結びつき、奈良時代に宮廷や貴族の間に取り入れられ、やがて民間にも普及していった。笹竹を立て五色の短冊に詩歌を書き、手習い事の上達を願う風習は、寺子屋が普及した江戸時代になってからのことである。江戸時代の市中では、六日の夕方、竹売りから笹竹を買い、色紙や短冊をつけて軒先に立てるしきたりがあった。
 もう一方の流れは、古くからあった日本固有の七夕の民族行事である。お盆の祖霊まつりにつながるもので、お盆の前に穢れを祓い浄める行事であったと解釈できる。七夕の日には、水浴びを大切な行事とした所が多い。髪を洗ったり子供や牛・馬に水浴びをさせたり、墓掃除をしたり、井戸をさらったりする習俗が各地に残されている。水浴びを「ねむり流し」とか「ねぶた流し」ともいった。
 青森の「ねぶた祭」も、本来は穢を水に流す祓の行事。ねぶた(ねぷた)は<眠たさ>のことで、睡魔を追い払う行事である。町を練り歩いた人形や灯籠は、川や海へ流した。灯籠流しが大規模に遊戯化したのが、青森のねぶたであり、秋田の竿灯なのだ。
 七夕における水に関する習俗は、日本固有のものである。七夕の日は、短冊が流れるほど雨の降るのがよいという地方もある。これは雨を浄めの雨と考え、七夕を祓の行事と考えたからである。
 また、この日は茄子や胡瓜などを仏前に供え、馬や牛を真菰(まこも)(イネ科の多年草)で作り、門口に立てた。先祖の霊を馬や牛に乗せて迎えるという意味であったらしい。これらのことから、盆と七夕の関係はひと続きの行事として理解することができる。
 「七夕」という文字は、七日の夕を略したもので文字どおりに読むと「しちせき」
「しっせき」「ななゆう」などとしか読めない。(『万葉集』では「なぬかのよ」「なぬかのよひ」と読む)。『古事記』と『日本書紀』に「おとたなばた」「たなばたつめ」という言葉があり、いずれも「機を織るおとめ」を意味する。日本には、秋の初め(陰暦7月)に豊かな収穫をもたらす神霊の訪れを水辺にしつらえた忌屋(棚)で、機を織って待つおとめの信仰儀礼があった。そのおとめを「棚機(だなばた)つ女(め)」といった。収穫の神を迎え祀る初秋の行事はたなばた「棚機」と呼ばれ、中国の七夕伝説との習合により、日本語のたなばたに漢語の「七夕」をあてたものと思われる。たなばたとは、棚機という機織りの機械そのものという考えもある。また、タナは神を祀る祭壇の棚からきており、ハタは神の依代としての旗、とする説もある。
〇 奈良時代の七夕
 『続(しょく)日本記』 聖武天皇 天平六年/734年7月7日の条
  天皇、相撲の戯を観たまふ、是の夕、南苑に従御し、文人に命じて七夕の詩を賦せしむ、禄を賜うこと差あり

 『万葉集』
  天の河楫(かじ)の音(ね)聞ゆ彦星と 織女(たなばたつめ)と今夕(こよい)逢ふらしも

  機の踏木持ち行きて天の河 打ち橋わたす君が來むため
七夕の儀式に用いられた品々 … 正倉院所蔵
   七本の針 … 長さ約35pの大針3本(銀針・銅針・鉄針)
          長さ約20pの小針4本(銀針・鉄針各2本)

   三色の色糸「縷」 … 白色・黄色・赤色の絹の糸玉や糸束
   鉄の大針の孔には赤い糸(縷)の断片が通されたまま残り、縷に付属する紙箋には「琴・箏・収了・琵琶・銀・九枚」の記載がある。
   赤い糸は赤心(いつわりのない清らかな心)の印といわれる。
〇 平安時代の七夕
『江家次第』
「雲圖抄」
  
乞巧奠 … 「宮中の清涼殿の東庭に長筵(ながむしろ)を敷き、その上に朱塗り
の高机四脚をすえ、桃・梨・茄子・熟瓜・大豆・大角豆・干鯛・薄蚫(あわび)などのほか楸(ひさぎ)(赤芽柏)の葉に金・銀の針各七本を刺して供える。これには五色の糸を通してある。
また琴一張を机の上に置き、傍らに香炉を置いて終始そらだきを絶やさぬようにする。机の周囲やその間に九本の灯台を置いて明かしを灯す。天皇は庭に椅子を出されて二星の会合のさまをご覧になり、管弦や和歌・詩文などを楽しまれる。」
〇 室町幕府の七夕
『年中恒例記』 「将軍は七夕の歌七首を詠じ、芋の葉の露を葉のまま包んで硯に入れ、七枚の梶の葉に歌を書き、梶の皮、素麺で梶の葉を竹にくくり、屋根に投げ上げた。」     
梶 … 桑科の落葉高木で、葉は三〜五裂して広く、梶の葉には七夕の歌を墨で書いて供える風習は、この後も広く行われた。
〇 江戸時代前期の七夕
『日次(ひなみ)紀事』 延宝元年/1676年
 「七月初七日 七夕 世に七夕と称す。武家並びに地下(じげ)(民間)の良賤,おのおの白(しろ)帷子(かたびら)を著(き)る。慶を修し索(そう)麺(めん)を喫し、また互いに相贈る」「地下人(民間人)もまた短冊あるいは楸(ひさぎ)(赤芽柏)の葉、梶の葉に詩あるいは歌を書し、素麺・瓜・茄(なす)とともに二星に献ずる。素麺は索餅(七夕に作られた麦縄ともよばれる唐菓子)の略なり」江戸時代には、貴族、一部武家の行事であった七夕がより庶民にも展開していく。
〇 子供が主役となる江戸後期の七夕
「宝永花洛細見図」
「拾遣都名所図会」
浮世絵師安藤広重が描く「名所江戸百景市中繁栄七夕祭」の図は、江戸市の家並みから七夕の笹竹が空高く突き出て、笹につけられた投網や吹き流しが空にひるがえりその向うに富士山が描かれている。
〇 明治以降の七夕
 明治六年/1873年、明治政府は五節句(供)を廃止。制度的後ろ盾を失い七夕は、さびれてゆく。特に首都東京では顕著だった。
 七夕行事復興の動きは、昭和初期に起きた。七夕で有名な仙台では、衰退していた七夕行事の復興のため、昭和二年市内大町商店会が七夕復興を提唱し、翌三年仙台協賛会(仙台観光協会の前身)、商工会議所、商店街が協賛し七夕祭りを始めた。
年々盛大となっていったが、第二次世界大戦の中断を経て、昭和二十一年に再開。翌年、昭和天皇のご観覧を契機として、本腰を入れて復活。その後、七夕協賛会が組織された。豪華絢爛たる七夕は、こうして生まれた。『要説宮城の郷土誌』参考。
 最近は、家庭や町内での七夕飾りは少なくなり、商店街に出掛けて七夕飾りを見学する方向へと変わってきた。

〇参考文献
・五節供の楽しみ  冷泉為人
・荊楚歳時記  守屋美都雄,布目潮風,中村裕一
・日本の「行事」と「食」のしきたり  新谷尚紀
・「まつり」の食文化  神崎宣武
・節供の古典 新井満
・七夕の紙衣と人形 石沢 誠司
・現代のこよみ読み解き事典 岡田芳朗・阿久根末忠
・室礼 山本三千子       
    

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