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きくか うたげ
「菊花の宴」
〜重陽の節供〜
九月九日憶山東兄弟
      唐 王維

独在異郷為異客
毎逢佳節倍思親
遥知兄弟登高処
遍挿茱萸少一人
九月九日山東の兄弟)を憶う

独り異郷に在って異客と為る
佳節に逢う毎に倍す親を思う
遥かに知る兄弟高きに登る処
遍く茱萸を挿して一人を欠くを
    (七言絶句・上平声十一真の韻)


記述:佐藤紀子
荊楚(けいそ)歳時記>
 6世紀に記された長江中流域の湖南・湖北地方の年中行事とその由来を記した民族資料。
九日、宴会と登高・菊酒
九月九日、四民並びに野を籍(ふ)んで飲宴す。
 杜公瞻を按ずるに云う。九月九日に宴会す。未だ何れの代より起るかを知らず。然れども、漢世より以来、未だ改めず。今、北人も亦た此の節を重んじ茱萸(しゅゆ)を佩(お)び、餌を食らい、菊花の酒を飲まば、人をして長寿ならしむと云う。
〇 重陽の節供
 重陽は、陽数の極である九が重なることで重(ちょう)九(く)ともいう。中国では、九が二つ重なる九月九日は、大変めでたい日とされた。
 中国の古俗では、この日、野に出たり、丘に登って飲食をする習慣があった。
「この日に茱萸の嚢(ふくろ)をぬいてひじにかけ、山にのぼりて菊酒をのまば、災いは他に転じて身はつつがなく過ごせる」という故事が伝わる(『続斎諧記』)。
 重陽の祝事は、日本に伝わり、平安時代初期に宮中の儀式として取り入れられた。
天皇が臣下とともにキクを愛で、菊酒を酌みかわし、詩歌を詠み楽しんだ。これを菊酣宴、菊花宴ともいった。
いにしへのならのみやけの菊の酒 けふ九日のいはひにぞのむ  (『古今夷曲集』)
 鎌倉時代以降、重陽の宴はさほど盛んにはならなかったようである。しかし、江戸時代になると幕府によって五節供が定められ、重陽は最も公的な性質を備えた行事として、城中儀式にもなった。陰暦によって定められた節供の行事は、明治以降も陽暦にあてはめられての祭りとして民間に伝承され、上巳、端午の二節供はさかんになった。ところが、重陽は現在では民間に受容されていない。
〇 茱萸(しゅゆ)
  中国原産の落葉高木(みかん科)。
 「椒は茱萸なり」とあり、周処の『風土記』には「茱萸は椒なり。九月九日成熟す色赤く、採る可し」(『中国古歳時記の研究』)とある。茱萸には、呉茱萸・食茱萸・山茱萸があり、九日に用いられるのは呉茱萸で、倭名をカワ・ハジカミという。
ハジカミは山椒のことで呉茱萸は山椒に似ているが中に核がなく、皮ばかりなのでカワ・ハジカミと名づけられたらしい。重陽の頃に実が赤く熟れてぴりっとした辛さがある。日本では茱萸をグミと訓(よ)むが、これは山茱萸の実がグミに似ているところから起った誤解。その元は貝原益軒(1630〜1714)である、と青木正児氏が指摘している。
  香気の強い茱萸は、邪気を祓う植物とされ、この枝を屋内にかけると鬼が恐れて入らないともいった。
〇 菊(きく)

  
 キクという名は本来日本語ではなく中国の「菊」の音による。漢音で両手をまるめて水をすくうことを「掬(きく)」といい「蹴鞠(けまり)」のマリを「鞠(まり)」という。こうしたキクの語尾が変化してキュウ(球)になる。球状のものを人の手であれば手偏の「掬」革でできていれば革編の「鞠」という文字であらわしたのであって、球状の花を咲かせる草として草冠をつけた「菊」の文字がある。「菊」をキクといのは中国におけることで、植物の菊とともにその文字と呼び名が伝わってきたと思われる。


〇 菊酒(きくしゅ)
(補)菊酒の由来 … 荊楚歳時記
   『豫章記』に云う。南陽に菊水あり。其の側に居る者、寿多し。劉寛、月々三十 斛(こく)を致(はこ)ぶ。水源の芳菊、崖を被う。故に以て名づく。
  <菊酒の作り方>
 菊花舒(ひら)く時、並びに茎・葉を採り、黍(きび)・米と雑えて之を醸す。来年九月九日に至り、始めて熟し就いて飲む。
故に之を菊花酒と謂う。「西京雑記」巻三「戚夫人」の条
 菊花五升、生地黄五升、枸杞子根五升、右の三味都(すべ)て擣(つ)きて砕き、水一石を以て煮て汁五斗を出す。糯(もち)米五斗を炊き、細麹を砕いて(ととの)えしむ。甕(かめ)内に入れて密封し熟し、澄清なるを候(ま)ち、毎(つね)に一盞を温服(燗して飲む)す。
『寿親養老書』中国の後漢末の『芸文類聚』の菊の条には、菊が滋液であることが記述されている。南陽(河南省)のレキ県の甘谷というところに住居する人々は皆が延命であり、それは菊の滋液を飲んでいたからである、とするのである。
そこの水源は菊で一面掩(おお)われており、滋液を含んだ水の常飲者は、上は百二・三十歳通常でも百余歳は生き、七・八十歳で死ぬものは大夭(だいよう)(若死(わかじに))といった、とある。
  平安後期の歌人藤原範兼の『和歌童蒙抄』(巻四)にかひの国のつるの郡に菊おひたる山あり。その山の谷より流るる水、菊を洗ふ。これによりてその水を飲む人は、命ながくして、つるのごとし。仍て郡の名とせり。彼国風土記にみえたり。甲斐の国(山梨県)に都留郡があり、大月市駒橋の南の山中から菊花石が出るという、とある。この鶴郡の話は、明らかに中国の甘谷の故事によるものと思われる。わが国でも、菊に対する不老長寿の信仰は、根をおろしていた。
天文年間(1532〜55)の書物に「九月九日、菊の花は彼の鬼の眉とて、酒を入れてえを飲めば、万病を去って命長し、菊の花の薬なる由緒を云えば、…」とあり、延寿の妙薬とされている。
又、同書には容姿が美しく周の穆王に愛されたが十六歳のとき、王の枕をまたいだ罪のため、南陽レキ県山に流された中国の仙童、菊慈童についての記述がある。この仙童は深山で菊を愛し、菊の露を飲んで不老不死になったという。謡曲では、「枕慈童」として演じられる。(観世では「菊慈童」と称する)    
〇 着綿(きせわた
 「九月九日は、曉方より雨少し降りて菊の露もこちたく、覆ひたる綿などもいたく濡れ、移しの香ももてはやされて。つとめてはやみにたれどなほ曇りて、ややもせば降りたちぬべく見えたるもをかし。『枕草子』
「もろともにおきゐし菊の朝露もひとり袂(たもと)にかかる秋かな」 倫子 
「菊のつゆわかゆばかりに袖ぬれて花のあるじに千代はゆづらむ」 紫式部『紫式部日記』
「着綿」は、八日に菊の花の上に真綿をかぶせ、菊の露にぬれた綿で翌朝、身を拭い不老長寿を願ったもの。平安時代の女房の間で多く行われていた。
紫式部は中宮彰子の母であり道長の妻である倫子から菊の着綿を贈られたのに感涙し花のあるじ(倫子)に千年の長命はお譲り申します、とうたっている。
〇 重陽の観菊
栽培菊の始まりは、唐の時代と考えられる。
中国の華北や華中で野生している紅色の花が咲くチョウセンノギク、黄色の花の咲くシマカンギク、その他の野生菊が自然にまたは人為的に交配し観賞用として栽培された。栽培菊が日本に渡来した時期については、仁徳天皇七十三年(385)に百済から青・黄・赤・白・黒の五種の菊が伝えられたとする説や、唐から伝えられたとする江戸時代の記録がある。
延命長寿の菊尊重思想が奈良朝以前に伝来し奈良朝中期に栽培菊が渡来。平安朝に入ってから宮中を中心に栽培、観賞が進展したと考えられている。江戸時代の中期には庶民が路地や鉢に大菊を植えることが流行した。これがきっかけとなり、秋には観菊の会がはじまった。やがて新種の菊を競い合う「菊合」が人気をよび、、新品種作りに拍車がかかった。菊細工とよばれた菊の花や葉で作った菊人形は、文化元年(1804)に江戸麻布の植木屋がはじめ、それが巣鴨あたりに広まった。
のちに大阪では興行化もされた。この行事は長く受け継がれ、今日では11月初旬に各地で観菊の会、菊人形展が開かれている。
〇 食用となるキク科の植物
〇 キク科の植物には共通した一種の味と芳香があり、それが食欲を刺激する。
  キク科に属する草 … ヨモギ・オギョウ・ヤマボクチ
             ヨメナ(春のヨメナは野菊の新葉)
  キク科の山菜 … ヨブスマソウ(秋田や山形ではホンナまたはドホナ)
           モミジガサ(シトギ)
           ソウジュツ(オケラ)
  キク科の野菜 … シュンギク・フキ・ゴボウ・ヤマゴボウ
〇 食用菊は古くから栽培され、青森県でつくる阿房宮(あぼうきゅう)の
「菊のり」や山形地方のおもい(・・・)の(・)ほか(・・)(もってのほか)の菊花づけなどが、多くの人に知られている。
小型の料理菊のほか、大輪の厚物(あつもの)咲きや管物(くだもの)もおいしい。しかし、在来種の和菊にかぎる。
〇 農山村のクニチ料理
『沖縄・奄美の衣と食』 〇 沖縄では九月九日をクングワチとかクニチと呼び、盃に菊の葉を浮かべた菊酒を仏壇や火のカミに供える習俗が、ほぼ全域にわたってみられる。
『日本の民族 福島』 〇 節句には菊の花を用いる。県下の氏神まつりはこの日に多く、今年とれた新しい藁でツツコをこしらえ、中に新米の強飯とシトギ(神に供える生粉の餅)とを入れ、御幣とともに氏神や水神などにあげる。
『日本の民族 千葉』 〇 館山市鉈切では九月九日を節供といい、赤飯・甘酒などを家の神や村の神社に供える。
『美作の民族』 〇 クンチ 九月節供・菊まつりともいい、餅つき、菊酒を飲み雑煮を食べて仕事を休む。近親者間で、餅の贈答を行う。
『宇和地帯の民族』 〇 九月九日を九月クニチと称して仕事を休んでごちそうをする。(内深田)栗飯を蒸し、菊酒を飲む。(三間)上家地では栗を食べなければならぬといい、正月に用いる栗をこの日にゆでて干す。
『くにさき』 〇 栗飯を炊き神仏に供える。(各地)ツクリハツオといって初穂を親方や親類に持っていく。(小栗毛)
  旧暦の九月九日は、現在でいうと約一ヶ月おくれの十月。早稲の稲作の収穫時期にあたる。収穫後の骨休みとする地域もあり、この日をクニチ・クンチ、あるいはオクニチ・オクンチとよぶところが全国的にみられる。九州地方では一般的に秋のまつりをそう呼んだ。九月九日、十九日、二十九日に行われる秋まつりをさし、「三九日(みくにち)」と呼ぶところもあった。
クニチには、栗飯を食べる地方も多く、この日は「栗節供」とも称される。クニチの食物は、赤飯・餅・団子・粥・甘酒など、地方によってさまざまである。とくに、クニチにナスを食べる風は、東北から関東、長野県などにおよんでいる。茨城県では三九日茄子、埼玉県ではクンチ茄子などと呼び、これを食べると中風にならないといい伝えられている。

〇参考文献
・ 五節供の楽しみ  冷泉為人
・ 荊楚歳時記  守屋美都雄・布目潮風・中村裕一
・ 「まつり」の食文化  神崎宣武
・ 節供の古典 新井満
・ 現代のこよみ読み解き事典 岡田芳朗・阿久根末忠
・ 服部流家元調理聚成  服部津貴子
・ 行事としきたりの料理 千澄子・城戸崎愛/宮田登
・ 伝承日本料理  柳原敏雄             

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